クロユリさんと三月 こばやしぺれこ
年度末は、鬼も号泣する忙しさだ。
そんな時なのに私は遅刻寸前である。言っておくがクロユリさんは悪くない。クロユリさんはいつも通りの時間に起こしてくれた。ただ私がソファで二度寝をぶちかましただけなのだ。
ここで説明するとクロユリさんは猫又で、月給三万円と衣食住の保証を対価に家政婦として雇っている。
クロユリさんは優秀だ。家事は完璧だしごはんはおいしいし、しかも黒い毛並みはツヤツヤもふもふ。
あんまり触らせてくれないのと真面目すぎるところが玉に瑕だけど。
何はともあれ遅刻ギリギリの朝だ。とにかくやばい。
朝ごはんを掻きこんで(クロユリさんがせっかく作ってくれたものを残せない)光速で歯を磨いて化粧して(身だしなみはちゃんとしないとクロユリさんに呆れられる)あとは髪を梳いて、ダッシュで駅に向かえば本当にギリギリの電車に乗れる。
と言うところで。
「ユキ! ユキ! たいへんです!」
クロユリさんの声がした。かなりの大声だ。遅刻寸前だと言っても無視するわけにはいかない。なにせクロユリさんが大声を出すなんて滅多にないのだ。
「どしたの?」小走りでリビングへ。もう髪なんて構っていられない。
「ここ! 一昨日行ったところです!」
クロユリさんは肉球でテレビ画面を叩いていた。時間を見るために毎朝なんとなくつけている、朝の情報番組。クロユリさんの肉球がてしてし鳴る。
そこに映されていたのは、見覚えのある景色だ。
なんの漫画か、私はよく知らない。けれどどうやら有名なのであろう漫画の絵が描かれた壁が、そこにある。
一昨日のことを思い出す。
私とクロユリさんは、たしかにそこにいた。その前をだらだらと歩きながら、やはりその壁に描かれた漫画について、話していた気がする。
日曜日だから人が多かった。溢れる人と車の排ガスと工事中の騒音と、都会特有のごちゃごちゃした臭い。
私はその街にある、猫又専用の洋服屋さんに行ったのだ。猫又は猫から進化した生き物だから、別段服を必要としてはいない。クロユリさんも、家事をする時以外は生まれつきの毛皮一枚を着た切りだ。
けれど私は私の欲のために、クロユリさんに服を買いたかった。クロユリさんの真っ黒な毛皮と宝石みたいな瞳に似合いの洋服を。
猫又用の服を買ったからといって、クロユリさんのお給料から引いたりはしない。むしろ「かわいい服を着てくれてありがとうボーナス」を渡したいくらいだ。
行く前までは「洋服なんていりません」とクロユリさんは言っていた。
けれど私に着せ替え人形にされて、店員さんと私に写真を撮られまくっている間、クロユリさんはまんざらでもないようだった。
テレビ画面はさきほどの壁から別の路地に移り変わっている。
「あっここも!ここも行きました!」
たしかに通った。けれど本当に通り過ぎただけのお店の前なのに、クロユリさんはよく覚えている。
クロユリさんは朝だと言うのに黒目がちになっている。ヒゲの先を震わせながら、興奮して画面にかじりつく。
普段こんなに興奮することなんてなかったのに。こんなに黒目を丸くするくらい、あの時が楽しかったのだろうか。
私を呼びつけて、懸命に報告するくらい。
楽しそうなクロユリさんを見つめて、たまに「うんそうだね」とか相槌をうちながら。
私は幸せな気分で遅刻するのだった。
こばやしぺれこ
作家になりたいインコ好き。好きなジャンルはSF(すこしふしぎ)
見たことのある景色がテレビに映るとなんか嬉しくなりますよね。
今回のお題写真を見た時がそれでした。地方住みですが、渋谷には年に何回か遊びに行くのでテレビに映った時の親近感もひとしおです。
それを共有できる相手がいるのも、また幸せな気分が増すひとつですよね。
ここまで書いてあのアキラの壁が渋谷じゃなかったらどうしようかと思いましたが、それもまた一興ということで。